介護や医療は生きていくために必要なもの
自治体の方から「後見制度を使わないと介護を受けられないのはおかしいと思う」という意見・質問がありました。「宝石や車を買うわけじゃない、介護や医療は生きていくために必要なもの、それを後見人がいないと受けられないのは違うんじゃないか」というわけです。
後見利用促進法の中、国立や県立の病院等は「後見人をつけるよう」国や県から通知を受け始めている。「数年前までは後見人などいなくてもよかったのに、促進法の絡みで面倒なことになっている。」とこぼす病院関係者は増加。後見人がついても、ケアカンファレンスには来ない、本人に会いに来ない、その割に本人の情報を電話等で聞きたがる、と手間が増えるだけで病院にメリットがないことをわかっているからである。
ほとんどの後見人は、本人と話す能力も、受けているサービスを評価する技術もない。たまに来たとしても「きれいなところですね、穏やかでよいですね」といってそそくさと帰るのが関の山。これで年間60万円程度、10人やれば600万円程度の仕事なのである。
医療や介護に詳しいとされる社会福祉士後見人なら大丈夫ということもない。「社会福祉士なのに本人やサービスのことを何もわかっていない」という医療関係者からの苦情は少なくないし、ぱあとなあから「本人に会いに行かないよう通知を受けた。行っても本人の負担になるから施設関係者と話して帰るようにとも言われた。行かない後見人と行く後見人のバランスを低い方で取るためらしい。どうしたらよいか」という相談をしてくる社会福祉士後見人もいる。
身上監護という言葉遊びから卒業しよう
身上監護という言葉遊びから卒業しよう。人前で権利擁護、身上監護、寄り添うという言葉を連発しながら、被後見人や家族から高評価を受けている後見人を私は見たことがない。「後見人は、財産管理だけしっかりやってくれれば良い」という医療関係者の声が現場の評価なのである。
医療や介護のための後見は廃止でよいかもしれない
医療や介護のための後見は廃止でよいかもしれない。判断能力が不十分な人は措置でやればよいからだ。「介護や医療は生きていくために必要なもの、それを後見人がいないと受けられないのは違うんじゃないか」という見解を踏まえ、形式的で、費用と手間がかさみ、本人や病院に何のメリットもなく、家族との軋轢が増え、家裁から選任された後見人に被後見人のお金が流れるだけの現状が続くわけ、ないでしょ。